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发表于 2008-1-18 08:39:24
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清水寺是京都最古老的寺院,被列为日本国宝建筑之一。
清水寺为公元798年(延历17年)由延镇上人所建造,为平安时代之代表建筑物,后来曾多次遭大火所焚毁,现今所见为1633年德川家光依原来建筑手法重建,与金阁寺,二条城并列为京都三大名胜,也是著名的赏枫及赏樱之著名景点。
清水寺的由来是公元778年(宝龟9年),从延镇上人在音羽的瀑布上参拜观音而开始的。到了延历17年(798年),坂上田村麻吕改建为佛殿,从此成为恒武天皇的敕愿寺。
清水寺的山号为音羽山,主要供奉千手观音,原本属于法相宗这一宗派但目前已独立,成为北法相宗的大本山。占地面积13万平方米,慈恩大师创建。相传慈恩大师是唐僧在日本的第一个弟子。现存清水寺为西元1633年由德川家康捐资重修的。元属法相宗,现自立为大本山北法相宗。
清水寺与金阁寺(鹿苑寺),岚山等是京都最为著名的名胜古迹,四季朝拜者不断。另与石山寺(滋贺县大津市),长谷寺(奈良县樱井市)等自古以来做为日本为数不多的观音灵地而闻名,平安时代以来,经常出现于日本文学作品当中。1994年,作为古京都文化遗产的一部登录于世界遗产名录上。是西国三十三个所(在关西地区参拜33所观音庙的巡访活动)中第16所寺庙。
清水寺的来历
清水寺因寺中清水而得名,顺着奥院的石阶而下便是音羽瀑布,清泉一分为三,分别代表长寿,健康,智慧,被视为具有神奇力量,游客路经此地一定会来喝上一口水,据说可预防疾病及灾厄. 清水寺是世界文化遗产,建于音羽山上,为日本佛教北法相宗的总院。相传延镇上人于778年在此开山后,由大将军坡上田村麻吕于798年兴建。现存的大部分建筑始建于公元1633年,被定为国宝的主堂是由139根立柱支撑的,宛如硕大的舞台,又称“清水舞台”。本堂的下方有著名的“音羽瀑布”,与祈求分娩顺利的“子安塔”,后者被列为重要文化遗产。寺院周围是京都的名胜古迹,春天樱花盛开,秋天红叶似火。
清水寺的建筑风格
清水寺本堂正殿供奉著十一面千手观音立像,这座每隔33年才开放参观,最近开放的一次是公元2000年.
现在的清水寺东西方有西门,三重塔,经堂,开山堂,轰门,朝仓堂,本堂,阿弥陀堂。周围的建筑有仁王门,马驻,钟楼,北总门。
寺庙中心的本堂是宽永10年(1633年)修建的建筑物,名为清水舞台。展现出它雄大壮丽的姿态。除了这些建筑物之外,境界内的东边设有引用江户时代初期的技法来修建完成的成就院庭院。
由于日本古时除了东、西两大愿寺可盖在京城内之外,所有的庙宇神社都只能依山而建,而清水寺坐落在山腰上,落差极大,这座完全木造的寺院总面积达13万平方米之广,其内最有名的「清水舞台」,离地五十公尺高却只靠139根木柱支撑结构,可见当年工程之浩大与艰巨!参观清水寺时,一路拾阶而上,除了参拜诸神,凭栏远望,更可将京都市景尽收眼底。
宛如古都的风物诗般,清水寺外围的一景一色,完完全全的将京都的风采表露无疑,无论是春天的樱花,夏天的瀑布,秋天的红叶或是冬天的细雪,清水寺都彷佛是为了证明京都而存在的一般,无时无刻吸引着人们流连忘返。清水寺朴素的正殿阳台突出于断崖之上,因为环境优美而成为跳楼自杀者的首选之地。
清水寺的西门建于西元1607年,建筑外观色泽鲜艳、雕刻细致有加;建筑形态呈单层八柱,屋顶属于“切妻”式建筑。
从清水坂前往清水寺道路两侧,除了有京都传统木造住宅林立外,沿途还有古老的神社和寺庙,无不充满宁谧与静穆气氛。古时候来到清水寺参拜的武士,通常先把马匹栓在仁王门前面清水坂上的马厩里,因此这个马厩就成为室町时代遗留至今的建物。
清水寺为栋梁结构式寺院。正殿宽19米,进深16米,大殿前为悬空的“舞台”,由139根高数十米的大圆木支撑。寺院建筑气势宏伟,结构巧妙,未用一根钉子。寺中六层炬木筑成的木台为日本所罕有。寺内有近30栋木结构建筑物,有正殿、钟楼、三重塔、经堂、地方神社、成就园等。正殿列为日本国宝级文物。它依山而起,殿宽19米,进深16米,殿顶铺有数层珠形的桧树皮瓦。
前部是由139根高大圆木支撑的“舞台”,气势雄伟。舞台的建筑,巍峨地耸立于陡峭的悬崖上,景色自是美妙,失足掉落下去祉休想拣得命来,以至日语里诞生出一条成语来:"从清水的舞台上跳下去",用来形容毅然决然地做某一件事。从“舞台”放眼望去,大半个京都的景色尽收眼底。如天气晴朗,还可以远眺大阪。殿旁有一眼清泉,被称为金水,传说,掬饮金水就能一切如愿。寺内另外16栋建筑也属国家重点文件,其外形各具特色,与正殿相映成趣。寺中的音羽瀑布,流水清洌,终年不绝,被列为日本十大名泉之首,清水寺之名也由此而来。
清水寺的后侧,有一处叫地主神社的小神社,神社和寺庙,本是风马牛不相及的两个宗教的顶礼膜拜场所,凑在一起也许是唯有在日本才能见到的景观。
清水寺文物
重要文物(建筑):
仁王门,下马台(うまとどめ),西门,三重塔,钟楼
经堂,田村堂(开山堂),朝仓堂,镇守堂,北正门,轰门,釈迦堂,阿弥陀堂,内院,子安塔,地主神社本殿・拜殿・正门
重要文物(美术工艺品):
木造千手观音坐像(内院正尊) 木造十一面観音立像 木造传・观音势至菩萨立像 木造大日如来坐像 木造毗沙门天立像(塔头慈心院所有) 渡海船额(末吉船图・角仓船图) 板绘朝比奈草折曳图(传・长谷川久藏笔) 铁鳄口 梵钟
旅游指南
交通 自阪急河原町站搭市巴士,于清水道站下车,步行10分钟
开放时间 6:00-18:00
票价 参观费300日元
清水寺大事年表
(此表转载自清水寺官方网站)
年号 西历 内 容
宝亀 9 778 大和子嶋寺の贤心、梦告により清泉を寻ねて音羽の滝に至り、永年修行の行叡居士に観音霊木を受け雕像奉祀し寺を创建。
宝亀 11 780 坂上田村麻吕公、音羽の滝の清水に导かれて滝上に止宿・练行中の贤心に遭い、観音に帰依して仮仏殿を造立し、十一面千手観世音菩萨を安置、寺を创建。贤心、名を延镇と改める。
延暦 14 795 延镇の师、子嶋寺开祖の报恩大师、寂。延镇、子嶋寺二世住职を兼务する。
延暦 17 798 田村麻吕公、延镇上人と力を合せ、更に伽蓝を造替え、本尊金色八尺の千手観音像、脇侍に、地蔵菩萨・毘沙门天像を安置する。
弘仁 1 810 镇护国家の道场となり、「北観音寺」の法号を赐い、「清水寺」の额を掲げる。
弘仁 2 811 5月23日、坂上田村麻吕公、没。
弘仁 12 821 6月17日、开山・延镇上人、入寂。
承知 14 847 嵯峨天皇・皇子诞生祈愿により葛井亲王、三重の塔を创建。
承平 7 937 轰门に多闻天・持国天を奉祀する。
永延 2 988 花山法皇、西国三十三所観音霊场の巡礼再兴に出発(现在、清水寺は第十六番札所)
长保 1 999 清水寺・上纲、名说教僧の清范(962~99)入寂。
○奈良・兴福寺の末寺関系を强める。
○藤原道长の「御堂関白记」や「源氏物语」「枕草子」などに清水寺参诣・参笼盛行の様子が记される。
○南都・兴福寺と北岭・延暦寺の抗争によって、兴福寺の最前线に立たされ続ける。
康平 6 1063 8月、火灾に遭い堂宇焼失。翌年6月、落庆法要を修す。愿文は藤原明衡の起草(「清水寺縁起」を记述す)。
寛治 4 1090 白河上皇・てい子内亲王行幸、7日间参诣される。翌年、本堂以下全焼。
○「今昔物语」に清水寺観音の霊験物语十话が载る。
○藤原成通が本堂舞台の栏干上を蹴鞠で往复する。
永万 1 1165 比叡山僧兵が大挙来袭、本堂以下ことごとく焼き讨ちす。
治承 3 1179 5月、祇园社・神人ら袭来し一山乌有に帰す。
文治 4 1188 阿弥陀堂において、法然上人、不断念仏を修し「日本最初・常行念仏道场」となる(法然上人ニ十五霊场・第十三番霊场)
○「新古今集」に清水の観音を咏んだ和歌ニ首が収められる。
承久 2 1220 3月、本堂・釈迦堂・三重塔が焼失。
○「平治物语」「平家物语」に清水寺信仰が记述される。
正元 1 1259 4月、火灾の为、本愿堂・塔二基・中门・西门・地蔵堂・二社など焼失。
文永 11 1274 12月、火灾により本愿堂・塔二基・大门・西门・车寄など焼失。
○この顷、ほぼ现在に近い堂塔伽蓝が出来ていた。
建武 2 1335 足利尊氏(1305~58)、相模国糟屋荘を寄进。
翌年、自身の安楽世と弟直义の今生果报を祈る愿文を奉纳
応永 29 1422 15年前に落雷焼失した诸堂、落庆供养。
○谣曲(能)「田村」「盛久」「熊野」、狂言「おちゃのみづ」「ゐぐい」「いもじ」や、说话「一寸法师」「梵天国」「闲吟集」などに沢山取材される。
文明 1 1469 7月、本堂・塔以下の诸堂、応仁の乱の兵火に遭い焼失。
文明 10 1478 4月、愿阿上人の大勧进により梵钟を鋳る。
文明 11 1479 愿阿上人、勧进状・奉加帐を作り、西日本全域に诸堂复兴の勧进活动を开始。16年、诸堂落庆。
永正 7 1510 朝仓贞景、法华三昧堂(朝仓堂)を寄进。
永正 14 1517 「清水寺縁起絵巻」制作さる(土佐光信画、中御门宣胤ら笔)
天文 17 1548 4月、三重塔落庆供养あり。
○「清水寺参诣曼荼罗」描かれ、寺僧の全国布教盛んとなる。
○武田信玄の愿文が奉纳される。
天正 17 1589 豊臣秀吉、寺领寄进、门前境内地子免除の朱印状を下す。
庆长 12 1607 钟楼再建さる。
○「洛中洛外図」に名所として必ず描かれる。
○江戸幕府より、所领安堵の朱印状を受ける。
寛永 6 1629 9月、本堂以下焼失、春日社・钟楼・仁王门・马驻ら残る。
寛永 8 1631 2月、徳川家光、清水寺の再建を発愿、西门・釈迦堂再建され、翌年、三重塔も再建。
寛永 10 1633 11月、本堂・奥の院その他の诸堂も再建さる。
○扁额絵马「末吉船図」「角仓船図」ら奉纳される。
寛永 16 1639 成就院が再建され、庭园も修筑される。
○三职(执行ー宝性院、目代ー慈心院、本愿ー成就院)、五院(义乗院・延命院・智文院・光乗院・円养院)の运営体制をとる。
○歌舞伎・人形浄瑠璃に清水物あり、扁额絵马の奉纳多くなる。
元禄 4 1691 オランダ商馆员ケンペル来山。
享保 3 1718 盛松権律师、慈心院を再兴。
享保 18 1733 慈心院・随求堂に大随求菩萨坐像を奉祀。
文政 9 1826 シーボルト来山、岸驹「虎の図」石灯篭奉纳。
天保 6 1835 忍向、成就院第二十四世住职となる。弟の信海、高野山に上り、真言密教と子岛流を修学。
嘉永 7 1854 信海、成就院第二十五世住职となる。忍向(月照)隠居し、近卫忠熙公に歌道入门、勤皇活动をする。
安政 5 1858 11月16日、忍向、西郷隆盛と共に锦江湾に入水し入灭。
安政 6 1859 3月16日、信海、江戸小冢原にて狱死。
明治 1 1868 神仏分离令が出され镇守の地主権现社が「地主神社」として分离独立する。
明治 3 1870 寺社领上地令によって境内地が1/4(约13万㎡)に缩小される。
明治 5 1872 8月、京都府が舞台からの飞びおり禁止令を出す。
明治 18 1885 法相宗へ复帰。
明治 30 1897 本堂(舞台を含む)、特别保护建造物(国宝)に指定される。
明治 35 1902 6月、本堂大修理完成し、16日间、本尊御开扉法要。
明治 36 1903 木造十一面観音立像、重要文化财に指定される。
明治 40 1907 渡海船(末吉・角仓船)図の絵马四面、重要文化财に指定される。
明治 41 1908 西门・钟楼、国宝…特别保护建造物に指定される。谷口香轿「残月山姥の図」を寄进。
明治 44 1911 子安の塔、仁王门前下より、现在地に移転。
大正 3 1914 大西良庆和上、奈良・兴福寺より兼务住职で晋山。翌年8月1日~5日、盂兰盆会法话を开始。
大正 7 1918 百体地蔵堂新筑。富田渓仙「鬼子母神」「伎芸天」寄进。十一重石层塔、本堂东より现在地に移転。
大正 15 1926 本堂舞台修理完成落庆法要。能楽奉纳される。阿弥陀堂修理。
昭和 9 1934 9月、室戸台风により音羽山全山树木倒れ、本堂西回廊倒壊。
昭和 18 1943 成就院・庭园、名胜に指定される。
昭和 23 1948 开山堂・奥の院・仁王门・西门を修理。
昭和 25 1950 本堂舞台大修理完成。西门・钟楼、木造十一面観音・毘沙门天像・渡海船図絵马四面、重要文化财に指定される。
昭和 27 1952 舞台を含む本堂、国宝に指定され、马驻、重要文化财に指定される。
昭和 32 1957 鉄鳄口、重要文化财に指定される。
昭和 40 1965 北法相宗を立宗。大西良庆和上、初代管长に就任。境内、古都保存地区に指定される。
昭和 41 1966 仁王门・三重塔・経堂・开山堂・轰门・朝仓堂・釈迦堂・阿弥陀堂・奥の院・子安の塔・北総门・春日社の十ニ堂塔、重要文化财に指定される。北法相宗・仏教文化讲座(唯识法话)定例月2回开始。
昭和 42 1967 本堂・奥の院、修理完成し本尊御开扉法要厳修。
昭和 47 1972 7月、豪雨により釈迦堂倒壊。
昭和 50 1975 釈迦堂复旧落庆法要。木造大日如来坐像、重要文化财に指定される。
昭和 51 1976 伝観音・势至菩萨立像、重要文化财に指定される。本堂西廻廊落庆。
昭和 53 1978 梵钟、重要文化财に指定される。
昭和 58 1983 2月15日、大西良庆管长入寂(数え109歳)
昭和 59 1984 大讲堂落庆法要。仏足石奉祀。
昭和 60 1985 朝比奈草摺曳図絵马、重要文化财に指定される。
昭和 62 1987 三重塔解体修理・彩色复元落庆。
平成 1 1989 开创1200年记念「京都・清水寺展」开催(东京・名古屋・大阪・新潟・富山・福冈・京都・高松・札幌,本山で平成3年10月まで开催)。
平成 2 1990 本堂舞台・奥の院舞台、全面张替え落庆。寺史编纂委员会発足。
平成 4 1992 春季・夜の特别拝観を开始
平成 5 1993 千日诣り宵参り复活。
平成 6 1994 西门桧皮屋根葺き替え・彩色复元落庆。访中仏迹巡拝団、宗祖・慈恩大师墓塔参拝。
平成 8 1996 阿弥陀堂彩色复元落庆
平成 9 1997 中兴堂落庆
平成 12 2000 経堂解体修理落庆。御本尊御开帐(3/3~12/3)。
平成 13 2001 御本尊御开帐记念「京都・清水寺展」开催(东京・名古屋・大阪)。
平成 14 2002 御本尊御开帐记念「京都・清水寺展」开催(熊本・鹿児岛・盛冈)。
平成 15 2003 寛永再建370年记念 奥の院御本尊御开帐(3/7~12/7)。 |
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